いつ死んでも良いように

最近、自分と年齢が近い方が立て続けに亡くなった。自分も日頃から終活を意識する年齢になったのかなと考える。運よく生きて、あと20年から30年の寿命かなとも思うが、身近な人の死を思うと、明日かもしれないし、来年かもしれないという意識も少しある。そう考えると、生きるとはどういうことかと考えざるを得ない。少なくともいえることは、金銭ではない、と思う。今でも時々、お金のことを心配しなくてもよいほどの財力があれば、と夢想することがある。しかし、例えば、病気で3か月の余命宣告を受けた場合、もはや、経済的利益を確保する期間も不十分であり、経済活動に専念する意義も見いだせない。考えてみると、人間の寿命は誰にもわからないわけで、確率的に高齢者の余命が短いだけであり、若年であっても、明日の命は保証されない。と思うと、毎日毎日を淡々と生きるしかないではないかと思う。瞬間瞬間の喜びを感じることが大事で、来てもいない未来のことをあれこれ想像することは生産的とは言えない。この瞬間にも、様々な理由で命の終わりを宣告された方が、全世界に多くおられる。そのような極限状態に置かれた場合、未来のことを設計する人はいるのだろうか?もちろん、家族の行く末を案ずる場合はあるだろう。しかし、それは、本人にはどうもできないことで、現状を受け入れるしかない。無念さを感じる場合があったとしても。

明日死ぬかもしれないという覚悟で生きれば、今の大切さがなんとなく意識に上ってくる気がする。

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