自分にとっての旅行の楽しみ

今年の夏は、コロナ感染の第7波にもかかわらず、多くの方が、行動制限なく旅行に出かけたりできた。自分も家族4人で東京へ出かけた。久しぶりの家族旅行であったため、少し贅沢なプランを作成した。しかし、よく考えてみると、旅行の中身よりも、家族と過ごすことだけで楽しかったと思えた。旅行の場所や中身は大きな要素ではなかったのだと。

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今を生きる

先のことを考えると、楽しかったり、憂鬱だったり様々だ。
今年の夏休みの旅行を計画するときは楽しい気分になる。数日後の面倒な行事を考えると憂鬱になる。人生はこのようなことの繰り返しだ。
来てもいない将来のことを、今、あれこれ考えることにどれほどのメリットがあるだろうか。

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ワークライフバランス

少なくとも古い世代の日本人にとっては、難しい命題。

休むことへの罪悪感がある。また、休み明けの倦怠感を嫌う。それくらいなら、仕事をし続けたほうが精神的に楽。ただし、極度のストレス下においては休息は必須。

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いつ死んでも良いように

最近、自分と年齢が近い方が立て続けに亡くなった。自分も日頃から終活を意識する年齢になったのかなと考える。運よく生きて、あと20年から30年の寿命かなとも思うが、身近な人の死を思うと、明日かもしれないし、来年かもしれないという意識も少しある。そう考えると、生きるとはどういうことかと考えざるを得ない。少なくともいえることは、金銭ではない、と思う。今でも時々、お金のことを心配しなくてもよいほどの財力があれば、と夢想することがある。しかし、例えば、病気で3か月の余命宣告を受けた場合、もはや、経済的利益を確保する期間も不十分であり、経済活動に専念する意義も見いだせない。考えてみると、人間の寿命は誰にもわからないわけで、確率的に高齢者の余命が短いだけであり、若年であっても、明日の命は保証されない。と思うと、毎日毎日を淡々と生きるしかないではないかと思う。瞬間瞬間の喜びを感じることが大事で、来てもいない未来のことをあれこれ想像することは生産的とは言えない。この瞬間にも、様々な理由で命の終わりを宣告された方が、全世界に多くおられる。そのような極限状態に置かれた場合、未来のことを設計する人はいるのだろうか?もちろん、家族の行く末を案ずる場合はあるだろう。しかし、それは、本人にはどうもできないことで、現状を受け入れるしかない。無念さを感じる場合があったとしても。

明日死ぬかもしれないという覚悟で生きれば、今の大切さがなんとなく意識に上ってくる気がする。

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死にとうない、死にとうない

身近な人に限らず、有名人がなくなっても、いや全くの他人が亡くなっても、その方の人生に思いを馳せてしまう。どのような人生だったのだろうか、やり残したことはどれほどあったのだろうか、などなど。

いつか必ず訪れる死という現実。若いときは、死を考えることは少ないとされるが、自分は13歳頃から、心底、死を意識し、無性に死が怖かった。江戸時代の博多の高僧、仙厓和尚の臨終の言葉「死にとうない、死にとうない」はあまりに有名である。その解釈は個々人にお任せするが、最後までお坊さんとしてのお勤めを果たされたものと自分は思っている。単純に最後までユーモアを発揮されただけかもしれないが。

死んだあと、今、思考している自分というものはどこに行ってしまうのか? 夜、そのようなことを考えると、血の気がサーッと引いていくのがわかる。これが、ニーチェのいう虚無というものか?

生まれる前のことを記憶していないのだから、その状態に戻るだけと考えれば、少しは気が休まる。

なぜこのような話を書いたかというと、関本剛さんというホスピス医が自らもがんに襲われ、今年4月に亡くなられたという記事を最近目にしたからである。45歳の若さだった。そして明日は、先輩のお葬式である。

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道徳と普遍の真理

道徳は国によって異なる。勿論、共通のものもあるだろう。例えば、「嘘をついてはいけない」ということは、殆どの国で道徳的な事項として捉えられていると思う。日本では、赤信号では、車がいなくても横断歩道を渡らないことが道徳的とされる。しかし、例えば、アメリカでは、車もいないのに赤信号でじっと待っていると、変わった人と思われると、何かの記事で読んだことがある。

普遍的な真理とは人類共通のものであろう。即ち、「愛」とは普遍的な真理である。「人を殺してはいけない」というのも普遍的な真理であると思っている。日本で、一時期、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と真剣に質問する10代の若者がいた。本にもなったと思う。これを理屈で納得させることは難しい。普遍的な真理は理屈で説明することは難しい。

‘イスラム国’では聖戦と称して、人を殺すことさえ正当化している。独裁政権の国家では、無慈悲な処刑が行われている。アフリカでは部族間の大量虐殺も起こっている。いずれも、人としての普遍の真理に反している。身近な人が殺されると、誰もが悲しく思うだろう。この感情は教育を受けなくとも、人が生まれながらに持っている感情である。それでも、知性で制御できないほど憎しみが増大すれば、人を殺してしまうのだろう。国家間であれば戦争ということになる。つくづく、人とは残虐なことをする生き物だと思う。

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インターネットの功罪

インターネットという言葉を初めて耳にしたのは、1994年頃だったと思う。携帯電話もまだ一般的ではなく、ポケットベルを職場から支給されていた頃である。今のメール機能に近いものとして、ザウルスという通信機器を使っていた記憶もある。マッキントッシュやNECなどのファミリーコンピューターは普及していたが、通信機能はなかった。そのような中、インターネットという通信網が出現した。これにより世界は一変した。インターネットがない時代が懐かしく思える時がある。現代では個人情報が洩れると、様々な被害が発生しうるが、インターネット以前の時代では、個人情報を利用して悪事を行う手段は殆どなかった。電話帳に、住所や氏名が普通に掲載されていた、のどかな時代である。

インターネット時代においては、情報や話題を提供することだけで金銭的報酬を受け取ることも可能である。マスコミという言葉は残っているが、今や、個人が情報発信源となり、マスコミと同等の影響力を持つことも可能である。そこで情報の真贋を見極めることが重要になってくるが、これが非常に困難となってきている。本物の記者でさえ、現場に取材に行かず、ネットのみの情報で記事を書く者もいるらしい。

外国人に対する見方も、ネットの影響が大きい。日本では、嫌韓をあおる記事が多いが、日本で出会う韓国人は概して‘良い人‘である。また、‘日本のここがすごい‘という類の本が盛んに出版されるが、外国でそれほど日本のことは知られていないと聞いたことがある。正しい情報はネットではなかなか得られないような気がする。少なくとも、ネットの情報を鵜呑みにすることは非常に危ういことである。

インターネットを利用して、楽してお金を稼ぐというのは心情としては理解するが、賛成はしない。youtuberがなりたい職業の上位に来るのも理解できるが、賛同できない。そのような仕事で、自分を高めることが可能だろうか?私自身は、仕事とは、laborではなくoccupationが望ましいと思っている。どのような仕事でも誇りを持っていれば尊いものである。私の仕事場の委託業者の清掃員でも、自分の仕事に誇りをもち、プロ意識が感じられる人と、清掃作業を卑屈に思っているような雰囲気の人がいるが、一目で見分けがつく。-徒然なるままに-

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ゆっくり急ぐ

相反する言葉を並べてみると面白いし、真理が見えてくる気がする。例えば「ゆっくり急ぐ」。オリジナルと思っているが、同じように考えている人もいるかもしれない。急いで物事を行うとすると雑になることが多い。かといってゆっくり過ぎては、事が進まない。つまり、事をなす際、丁寧だが、焦らずに心を落ち着けて、てきぱきと実行する、というニュアンスである。

もう一つ、「苦労を楽しむ」も好きな言葉だ。苦労はつらいものだが、経験と考えれば、後々、役に立つ。そう言う風にとらえれば、苦労も苦労ではなくなる。

なぜ、このような発想をしてしまうのか考えてみた。私は、「中庸」という言葉が好きだ。中庸は論語に出てくる言葉だが、中途半端、どっちつかずではないと思っている。

中庸と、上述した相反する言葉の組み合わせには通じるものがあるように思う。つまり、バランス感覚である。どちらかに片寄るのではなく、バランスを取りながら、真ん中を進んでいく。幸も不幸も受け入れるが、どちらかに片寄ってしまう事なく生きていく。快楽も苦難も受け入れるが、快楽だけでは堕落するし、苦難だけではつらい人生となってしまう。どちらも深入りしすぎないことが重要。つらいと思った時には、少し羽目を外すのも良いだろう。快楽に溺れてしまいそうなときは、自ら課題を作り、それにチャレンジするのが良いだろう。

さあ、今日もゆっくり急ごう、とするか。

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生真面目は良いこと、悪いこと?

日本では生真面目という言葉は、ネガティブなニュアンスを含まないことが多い。むしろ、控えめな好印象を与える。日本人の国民性を代表する言葉でもある。ところが、国によってはそうでもないらしい。

旅番組でシチリア島が紹介されていた。シチリア島は歴史の中で、ひどい目に合うことが多かったらしい。その為、悪いことが起きても、明るく楽観的に捉える国民性だというのだ。インタビューを受けた初老の男性が、「人を笑わせることが大切なんだ。生真面目な男なんてつまらないだろう?」と答えていた。確かに、外国には陽気な国民性の国も多い。それに比べて、日本人は総じて「生真面目」である。日本人は、少し酔ったくらいが丁度いい、という陽気な国の人が言ったのを思い出す。ある陽気な国のアフリカ人は、にこりともせず往来を行き来する日本人、日本という国になじめず、ストレスを抱え帰国してしまったという話も聞いた。

大きな枠で国民性といっても単純ではない。日本人にも、底抜けに明るい人もいれば、底抜けに暗い人もいる。国民性とは、最大公約数的な意味合いだろう。個人にはそれぞれの個性が、国民性とは別に備わっている。

社会が国際化するにつれ、国民性は薄まっていきつつあるように感じる。また、日本人の国民性が、歴史の中で一貫したものであったとは思えない。と考えれば、日本人の国民性が今後変わっていく可能性もある。もしかして、日本人の国民性がカリブ海の国々の人みたいに、陽気になる日が来るかも。個人的にはそうなったら楽しいかなと思う。

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戦後76年

戦後76年が過ぎた。現在90歳の方でも、終戦時14歳である。戦争体験者がいずれゼロになる日も近い。その時、日本もまた、同じ過ちを犯すのだろうか?

ずいぶん前になるが、第二次世界大戦で陸軍兵士として戦った方と話をしたことがある。既に70歳後半の男性であった。陸軍といえば、終戦間近の時期は、食糧難で大変な苦難を味わったはずである。さぞかし悲惨な目にあっただろうと思いながら話を聞いていた。ところが、この方は非常に明るく話をされるのである。「私が今健康なのは、戦争で重い荷物を担ぎながら、毎日毎日、何キロも戦闘地域を歩き、足腰を鍛えたおかげです」と。何と前向きな考えだろう。勿論、額面通り受け取るわけにはいかない。新兵に対するしごき(暴力)は日常茶飯事であったろうし、行軍することは半端ない苦痛であったはずである。戦争を美化することは感心しないが、どのような苦難も、考え方一つでこうも変わるものだと感じた次第である。他にも、陸軍中野学校を卒業したという方の話も聞いたことがあるが、このような貴重な体験を話してくれる人は、殆ど鬼籍に入られている。

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